角川シネマで終戦記念企画として戦争を扱った映画を2本みてきたので、その映画の感想や私見を書き綴ります。
言葉を選びながら、今私が感じること、考えていることを出来るだけカタチにして伝えられることができたらいいな。上手く伝わらなかったら、すみません。
と、予防線を張りつつ、映画の感想です。
※ネタバレありで話します!
野火
今回見たのは1959年市川崑監督版です。
船越英二さん演じる「田村」が、部隊からも野戦病院からも見放され、南の島で彷徨う…というストーリーですが、 田村の柔らかい物腰とミッキーカーチスさん演じる「永松」の目の昏さが印象的でした。
敵であるアメリカ兵はほとんど出てこず、田村が殺したのもアメリカ兵ではない者ばかり…。
なんのためにここにいるのか、なんのために戦っているのか、そんな疑問を感じた作品でした。
1959年というと戦争から14年しか経っていない、その状況って今私たちが生きている2025年から14年前の出来事、2011年の東日本大震災と同じ年月ということですよね。
戦争と災害を同列に並べるわけではないですが、まだ多くの大人たちは、「あの出来事」を鮮烈に覚えている、そんな中で上映された当時の感想が気になりました。映画は「こんなこと現実には起きてほしくない!」を体験する施設であると思うのですが、映画を観た人のうち、どれほどの人が田村のように異国を彷徨い、飢餓に苦しみ、同胞を見捨てることになりながら、日本にたどり着いたのでしょうか。
この映画がどこか第三者的なカメラワークで飢餓地獄を映しているのは、臨場感を故意に演出しなくても当時の人々の共通認識として飢えることの苦しみを知っていたからかもしれません。
飢餓地獄を、クーラーの効いた映画館で清潔な水を飲みながら鑑賞する私。飢えることを知らず、あまつさえダイエット記録まで付けている私。
主人公の置かれている立場と鑑賞している私にギャップがありすぎて、「こうなりたくない」「この時代に生まれなくてよかった」以上の感想が出てこずにいます。
一つ一つのシーンとしては、歩く兵隊たちの足元だけがクローズアップで、靴だけがどんどんボロボロに変わっていく場面や、飛行機が近づくたびに地面に伏せ、ある兵士は起き上がりノロノロと歩き始め、あるものはそのまま泥の中で死んでいくのを繰り返す場面など、観察者のようなカメラワークが目を惹いたり、モノクロでありながら、南国の極彩色(ロケ地は御殿場近辺とのことですが)を想起させるような画作りはさすがの一言でした。正直、血のある描写が苦手なので、禁忌を犯すシーンではセンセーショナルにしつつも白黒映画でよかったなと個人的には思いました。
塚本晋也監督版は未見ですが、前評判を聞く限り、カラー作品であること、市川崑監督版以上に臨場感があるとのことで、心身が元気なときに視聴したいと思います。
ジョニーは戦場に行った
ダルトン・トランボ自身が原作・脚本・監督まで務めた作品。
あらすじは、第一次世界大戦に志願したジョーは、敵の砲弾により目も耳も口も吹き飛ばされ、運び込まれた病院で四肢も切断されてしまいます。わずかに動かせる頭部と皮膚の感覚しかない中で、ジョーが空想と現実との狭間で苦しみ続ける…というお話です。
本当に恐ろしく、救いのない話でした。
設定としては、江戸川乱歩の小説「芋虫」と似ていますが、あちらが怪奇趣味や嗜虐嗜好を発端として描いているのに対し、こちらは暗闇の中の絶対的な孤独をテーマとしているので非なるものだと分かります。
ちなみに「芋虫」を原案とする若松孝二監督の「キャタピラー」は未見のため、比較対象からは外しています。
意識が戻った時には、すべての感覚がなくなっていて叫びたくても口がない、様子を伺いたくても目がない。自分が誰なのかすら伝える術がなく検体番号で呼ばれ、もはやニンゲンとして扱われることもない…。
永遠の孤独が続く中、人間性を取り戻すためにジョーは時間を掴むこととコミュニケーションを図ることに挑戦します。
看護婦が窓を開けるときに感じる太陽の温かさ、風の心地良さ。これによって一日という時間を掴めることに気付き、そこから1日を7回で1週間、1週間を4回で1か月、1ヶ月を12回で1年という時間を掴んでいきます。
主人公の境遇を哀れに思う看護師が彼の胸に「MerryChristmas」となぞる時、ジョーは今日がクリスマスだということを理解し、他者と交流できたことに歓喜し、看護婦に心の底から感謝をしました。
このシーンは、涙なしには見られなかったです。
自分たちが普段感じる太陽の照りつける日差し、カーテンをなでる風の柔らかさ、雪の冷たさすら当たり前ではなく尊いものであること、他者と分かち合うことの素晴らしさをこの作品は語りかけてくるのです。
ジョーは、過去のことを思い返そうとしますが、だんだん思い出に幻想が浸食してきます。出征前夜に恋人と過ごした美しい思い出、幼いころの父親との釣り竿のやり取り…。記憶を反芻するたびにこうなってしまったのではないかといった不安やこうあってほしかったという願望が具現化するのでした。
恋人が自分とは別の男と結婚してしまったと告げて来たり、出征前夜に娘をよくも妊娠させたなと彼女の父親が怒鳴り込んできたり。どれが現実で起きた出来事でどれが妄想なのか、観客側では判断がつきませんが、父親との関係は本当に良好であったのだろうか、と疑問に思います。
最初の頃の記憶では、幼いジョーに「釣り竿だけが誇り」と言い、のちに大きくなったジョーがその釣り竿を池に落とした際には「たかが釣り竿じゃないか」と慰めました。
このシーンをみた時にはなんていい父親だろうと思いましたが今思い返してみると本当にそんなことを父親は言ったんでしょうか?ジョーが都合よく書き換えていないでしょうか?
父と息子の関係が直接的にこの映画に影響を及ぼす訳ではないし、映画本編の描写では、カラー映像で映し出す記憶について、何が真実か分からないようになっているため、真偽の判断が難しいですが、なんとなく、これはジョーが作り出した虚構のように思います。
そんな虚構の父親に示唆されたモールス信号を使い、自発的なコミュニケーションを手に入れます。まさに画期的な発明だったこの手段は、ジョーがずっと望んできた他者との交流を可能にしました。しかしその先に待ち受けていたのはコミュニケーションの不和から起きる更なる地獄で…。
まさにコミュニケーションエラーとしか言いようがないでしょう。なぜ最初に自己紹介をお互いにしなかったのでしょうか。医師側もまさか被検体に意識があると思っていなかったわけで、今までジョーがどんなに苦しい思いをしていたのか知るはずもありません。そんな想像が及ばない中で、なぜいきなりジョーに「What do you want?」と聞いてしまったのでしょうか。
ジョーも、相手がどんな相手と会話しているか分かっていたのであれば、もう少し違った答えをしていたかもしれません。
いずれにしても、映画史上に残る最も絶望的な会話劇は短い間しか行われず、ジョーは誰も応答することのできないSOS信号を発信し続けたまま、この映画は幕を閉じます。
アメリカが戦争に関わるたびに、原作が発禁処分になることこそがこの作品の言いたいこと、すなわち戦争とは何かを表しています。
戦争とは人間性の否定である。
身体的な感覚はもちろんのこと、言論表現をすること、他者と分かち合う幸せを絶ち、人生を奪うのが戦争の本質であると訴えています。
民主主義を掲げようが共産主義を掲げようが戦争に思想や主義は関係ありません。
大人たちは、言葉巧みに若者たちを煽り、戦場に向かわせます。
「道を歩いていても死ぬことはある」「ほとんどの人は帰ってくる」「民主主義を守る」「男なら国に奉仕すべきだ」「誰かが戦場に行かなくてはいけない」「平和のために」
この主人公のように成り果ててしまっても、大人たちは助けてくれません。
戦場に行ってしまったジョニーは、もう二度と戻ってくることはできないのです。
鬱映画だと言われる本作ですが、グロテスクな描写などは一切ないし、記憶の中のジョニーは笑っていることも多く、現実パートの展開がとても辛いのと設定自体がショッキングではあるが、トラウマというほどの映画ではないと思います。
未見の塚本晋也版「野火」や若松孝二版「キャタピラー」の方が、
血や暴力描写などの表現が多そうな気がします。
市川崑版「野火」にしろ、「ジョニーは戦場に行った」にしろ、
人肉食や四肢欠損などのセンセーショナルな言葉につられて、あたかも戦争の残忍さを感じた気がしてしまいますが、伝えたいことは残酷さではなく、戦争の本質、すなわち戦争が人間であることを忘れさせ、人間の存在意義を失わせることだと思います。