【劇評】ヨナ-Jonah

佐々木蔵之介ひとり芝居「ヨナ-Jonah」見てきました。

シルヴィウ・プルカレーテ演出、佐々木蔵之介出演タッグを見るのはこれが3度目。

初タッグ作品の『リチャード三世』(2017年)では、陰鬱な物語と荒涼とした舞台セット、役者たち、特に女性の役を演じた今井朋彦、植本純米の演技が素晴らしく、寒々しいのに騒々しい世界にすっかり魅了されてしまった。

次作『守銭奴 ザ・マネー・クレイジー』(2022年)では、半透明ビニールが何枚か吊下げられ、部屋として見立てつつも、半透明ビニールが風で揺れたり、ビニール越しに役者の姿がうっすら見えたりと、ビニールの特性を生かした見通しの悪さがなんとも不気味な印象の舞台セットだった。

また、プルカレーテ演出は音の使い方も特徴的で、『リチャード三世』では開幕早々爆音が鳴り響き、チェーンソーの音がするたびに誰かが死ぬ、『守銭奴』ではリコーダーやサックスが象徴的に用いられていたことも印象的だ。

2025年の現在でもどんな劇だったか思い出せるくらい、プルカレーテの舞台は刺激的で語りたいことが多い。

今回の作品「ヨナ-Jonah」は、

過去作と比較しても難解な言い回しが多かった。

これまでの作品では、シェイクスピアやモリエールなど、古典戯曲を上演してきた。

しかし今作はルーマニアの国民的詩人マリン・ソレスクが書いた戯曲だ。演出家シルヴィウ・プルカレーテ自身もルーマニア人である。

旧約聖書の聖人ヨナの逸話を題材としているが、シェイクスピアと比べればほぼ現代に書かれたと言っていい作品だろう。

この作品を解釈するためには、ルーマニアの近現代史が不可欠のようだ。

かつてルーマニアという国は1989年まで社会主義国であり、言論統制が布かれる中、上演されたのがこの戯曲である。

表現者にとって、自由な表現ができないことは息ができないことと同意義だ。

マリン・ソレスクもシルヴィウ・プルカレーテも、当時は息を殺しながらできる限りの表現を模索していたのは想像に難くない。

佐々木蔵之介の演じるヨナは、これまでのプルカレーテ作品で演じてきたどの役よりも見えないなにかに縛られているような様子であった。

舞台美術も大きな紙が一枚、舞台を横一面覆い隠すように吊られているところから始まる。舞台の狭い隙間に座り込む佐々木蔵之介が当時の窮屈な世相を表しているようで、その紙殻を破ることで物語は展開していく。

社会主義時代を知る人間が、当時を振り返りながら、当時書かれた戯曲を上演する。どうしても内省的、鬱屈的にならざるを得ないだろう。だから、突破口となるヌケのポイントが必要だ。今作は主人公ヨナを東の端のアジア人に演じさせたのが今作のポイントだ。

もちろん、ルーマニアについてまったく知らずに演じることはできないから、佐々木蔵之介は1カ月にわたってルーマニアで稽古をしたのだと思う。

遠い異国の俳優にヨナを演じさせることで、聖書で描かれた聖人ヨナの置かれた苦境、ルーマニアの圧政に苦しむ表現者といった限定的な時代設定ではなく、より普遍的な、人生をどう生きるかといった哲学的観念にまで昇華させた。

正直後半の出来事は、セリフを追いかけるのに必死で理解が不十分なことが多いが、

チョークでひっかいたような傷跡が「光へと向かう道を探すんだ」が本当に良かった。

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