
好き嫌い分かれると思うけど、こういう作品、わたしは好き。上映スケジュール的に「夢二」が見れず、残念だったが、同じようなテイストであればたぶん好きだと思う。
両作品とも象徴主義的な作品であり、作品内で起こる出来事、映るものすべてがメタファーであると考えた方が良い。そのため、整合性や事実の追及はナンセンスである。こういった作品を鑑賞する際に混乱しないように注意しよう。分からないを楽しむ映画、くらいの気持ちで見るのが吉だ。
原田芳雄も松田優作も、私が自分が映画をむさぼり始めた頃にはすでに亡くなっており、出演作品をあまり存じ上げないのだが、両作とも俳優のパワーが溢れていた。とくに原田芳雄。「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」ともに無頼漢として登場し、居場所がなくフラフラ、終始ギラギラとした危険な男の臭いをまき散らしながら、時折茶目っ気を出してこちらを油断させてくる。深く付き合っちゃダメだと分かってるのになぜか惹かれてしまう、目で追ってしまう。これは役者本人の魅力なのだろうか?登場人物にまで滲み出て、より深みのある人物になっていた。話が逸れるが、三船敏郎から連なる(もっと前からかも)、「昭和の男らしさ」の系譜上にこの2人はいるのかな、と思ったり。以下、ネタバレも含めた感想です。
先に主演俳優について語ってしまったが、舞台設定、ストーリー、音の使い方、どれをとっても面白い。
まず、原田芳雄の登場シーンから面白い。焼きとうもろこしを頬張りながら、水死体の見物をする。このシーンは中砂糺(原田芳雄)の自己紹介だけでなく、この作品の重要な要素である「食と死」「骨と肉」を提示するシーンでもあったのだ、と書きながら気づいた。そしてカシャカシャ…と、カニのチープな合成映像とともにカニの動く音が耳に障る。カシャカシャ音は作品の随所で鳴り、カニの赤い色も死を暗示させるカラーとして象徴的に機能する。覚えている限りだと、弟の骨、カニ、鱈の子、桜が印象的な赤色であるが、作品名で画像検索すると至る所に赤色があり、もっと特別な意味を持ったモチーフなのかもしれない(実はそうでもないのかもしれない(笑))。分からない。
また、登場人物たちの相関関係も相当面白い。小稲とお園は同一の役者(大谷直子)が二役演じているため、分かりやすいが、実は中砂(原田芳雄)と青地(藤田敏八)も鏡に映ったもう一人の人格として存在している。右利きの人が、鏡に映るとの左利きのように、中砂と青地は、和装と洋装、放浪者と勤め人、日本家屋と洋館住まいと正反対の人物である。しかし、2人は元々ドイツ語学者であり、なぜか気が合い、青地は中砂の生き様に憧憬を抱く。中砂も青地の名前を自分の娘に付けたり、交換しようと提案したり、骨を欲しがったりするくらい、相思相愛の仲なのである。交換しよう、とは何を指しているのか。自分たち自身のことなのか、お互いの妻であるのか。分からない。確かに作品内では、お互いの妻と関係を持ってしまったようなシーンもあるし、妻もそれぞれの夫ではなく、お園は青地を、周子は中砂に恋慕を抱いているようなそぶりを見せている。相関図にするとややこしく見えてしまうが、分数の約分の計算式のように最終的には1人の男と1人の女に集約されるのだと直感的には思う。しかし、男は青地、中砂の2人に対して、女は小稲、お園、周子、周子の妹と女が4人も登場する。この4人の女の役割など、まだまだ深掘りできていない点が多い。なかでも周子、周子の妹の表す意味は何なのであろう。周子の鏡を見る癖は何を表すのか、なぜ水蜜桃を食せるようになったのか。妹はなぜ臥せっているのか、死に際の鱈の子とは何を指すのか(お園の遺言との類似点相違点も面白い)。分からない。
鎌倉という、関東屈指の歴史ある地を舞台にしたこともこの作品を魅力あるものにしている。特に、中砂宅へ向かうあの切通しは、鎌倉らしさを感じさせる印象的なシーンだ。粗く削りだされた剥き出しの土壌と雑木林や、長い年月多くの人がこの切通しをくぐり抜けていったのであろう、すり減った坂道は黄泉比良坂や胎内くぐりのようにも思えてくる。鎌倉には古くから人が住み、住居跡や遺体の集積場が遺跡として今も多く残っている。彼岸との距離が近く、歴史の層の厚い鎌倉だからこそ、ある種の説得力を持ってこの映画を構成できているのは間違いないであろう。
中砂は人を殺めたのか、妹の見舞いの帰りに聞いた「駄目だよ」という声、屋根から落ちる小石、盲目の3人組はどうなってしまったのか、豊子はなぜ中砂の遺品を知っているのか、ツィゴイネルワイゼンのレコード盤をなぜ周子が隠し持っていたのか、分からない。
正解が映画に描かれていないので、すべて藪の中だ。冒頭に述べたように、この作品でつじつま合わせは全くもって無意味である。観客は推測と想像を解釈と呼び、作品を意味づける遊びをし続けていくしかないのである。